Yu Yamauchi 山内 悠
自然 JINEN
With the support of FUJIFILM
山内悠は屋久島に 9 年にわたり何度も通い、毎回単身で約1カ月を森の中で過ごしました。大自然の中で自分の中にある不安や恐怖心に気づき、自然との距離を感じたことからこの旅は始まります。猿やほかの動物は何事もなく活動しているのに、なぜ人間である自分は恐れを抱くのか、この感覚は何なのか。昼夜問わず森の中を歩き続け、自身の内なる恐怖心や感情と向き合う中、山内は様々な巨木に出会い 、その存在によって外界へと意識が引き戻されました 。
その巨木を撮影することで「樹と自分自身がつながり、自然と自分との境界線が曖昧になった」と山内は語ります。自分自身も何も恐れる事のない自然の一部なのだと悟った瞬間でした。境界を引いていたのは実は自分だったのだと気付き、いかに自分の意識が作り出した幻想(表象)の中に居たかを実感するようになりました。そして、このような内(自身)と 外(外界)の行き来を何度も繰り返した森での最後のとき、闇夜にヘッドライトで照らされて現れた恐怖を煽る森の樹々が、夜明けには光に照らされた神々しい存在へと変化するさまを目の当たりにしたのです。そのとき、ずっと抱えていた恐怖心は消えていました。目の前に在る現実とは何なのか、山内はその疑問をずっとカメラを通して問いかけてきましたが、それは自らの内にある世界の投影であることを写真が見せてくれたと語ります。
「自然(しぜん)」という言葉は、明治期以降「Nature」の訳語として人間の対義として用いられるようになりましたが、日本には古来より「自然(じねん)」という考えがあり、「おのずからしかる」と読むように、人間をも含む全ての現象は、ありのまま、あるがままの状態である事を意味しています。こうして生まれた本作「自然|JINEN」は、山内が体感した心の状態と森との関係性が異次元なイメージとして写真に投影されています。その自ずと変化して行くありのままの光景には、私たち人間の存在のありか、それ故の世界の闇と光を見ることができるのではないでしょうか。
バーチャルツアー
アーティスト
Yu Yamauchi 山内 悠
Special Interview|山内悠
2022年12月
(インタビュー:鮫島さやか 構成:田附那菜)
導かれる方に進んでみる覚悟
──写真との出会いについてお聞かせいただけますか?
写真を撮り出したのは中学校の時でした。クラスの写真集を作るというので、カメラを父親から借りて学校に持って行ってたんすよ。レンズを覗いたときに目の前のものがボケたり、レンズによって見え方も変わるし、被写体との距離感が変わっていく感じがおもしろいな、と思って。現像した写真も、シャッター速度や露出などの調整で、実際に見ていた世界とは全然違うものが写っているじゃないですか。「うわ、あれがこんなんになってる」と興奮して、そこから10代の頃はずっとそんな感じで写真を撮っていましたね。まるでこの世界にコンコンってノックする様な行為をずっと探していたような感じがして。
──写真家としてのターニングポイントはありましたか?
20歳くらいの頃に、誰かに「撮った写真に責任取らないといけない」と言われて、その時初めてその責任を取ることを考えました。そこで、写真集を自分で作ることにしたんですよ。自分の写真を見返して、意図せずに撮れた写真などを集約していくと「自分はこんな世界を見ていたのか」という発見がそこにはありました。そこから僕は、バックパックで世界中に旅に出て、写真を撮っていたりしました。大学生を卒業する頃には、就職するのではなく、旅を続けたいし、写真の道を選ぼうと思って、何も考えずにスタジオマンになりました。でもそのスタジオでは、クライアントの要望に添って、チームで写真を撮っていくので、今までの自分の写真の行為と真逆で、写真が一切撮れなくなってしまいました。それで、「もうここにはいられないな」と思って。山小屋に行くことにしたんです。
──どのような過程で山小屋に行くことになったんでしょうか?
色々思い悩んでいた頃、お正月に京都の鞍馬山に行ったんですが、猛吹雪でロープウェイ止まってしまい、歩いて山を登っていったら、鳥居のところで雲が割れて光が降りてきて、おばあさんがきて「こっちにおいで」と声をかけてくれました。そのおばあさんにお堂に連れて行かれ、お坊さんに囲まれて経を読まれ、最後に背中を数珠で叩かれて、気分を一新して東京に帰りました。東京に戻ってきたら、家賃の安い家住んでいた友人から「一年くらい旅に出るからそこに住んでくれないか」と言われ、引っ越すことにしました。すると、引っ越しを手伝ってくれた別の友人が富士山の山小屋に行くと言うので、僕もついていくことにしたんです。最初から目的があったのではなく、流れとしてそうなったんです。
作品を作るということ
──「雲の上に住む人」は富士山の山小屋の作品ですよね。
はい。夏に山小屋に通い始めて二年目に、40年いらっしゃった山小屋のご主人がご病気になって下山されたんですよね。お世話になったのに、僕はその方の写真を一枚も撮影していないことにその時に初めて気づいて、写真との向き合い方を改めないと、と思いました。幸いにもご主人は元気に山小屋に戻っていらっしゃったので、「この人が生きてきたことをここに何か残さなあかんな」と思い、そこから全力で一つ作品を作ろうと思って「雲の上に住む人」を完成させました。二年間撮り続けたオリジナルプリントを全部製本して、それを山小屋に寄贈したんです。
──何かに突き動かされている感じがしますね。
そう。あの時、作品は自分のためではなく、何かのための写真というものが存在しないと意味がないと痛烈に思わされてできた結果です。それで、「雲の上に住む人」を制作している時に「夜明け」の構想を思いつきました。偶然撮影していた富士山からの夜明けの情景を上下逆さまにしてみたら、地球みたいに見えたんですよ。本当に見せられたと思いましたし、その一枚から「これは追いかけて行かなあかん」と思って、雲だけの作品を作ろうと思いました。不意に撮れた、自分の意志とは関係ないところで見せられた世界が「夜明け」です。約4年かけて制作しました。最初に「雲の上に住む人」ができて、「夜明け」、その後に「惑星」です。
──冬場はどのように過ごされていたんでしょうか?
元々、自分の意志とは全く関係なく富士山に行くことにしたので、冬場もこの流れに任せて山小屋でご縁をいただいた西表島の住み込みの農家で働いていました。西表島では、農家の仕事を手伝いました。それで、畑で鍛えられた身体で、カメラとテントを携えて西表島の自然の中に一人で入って、そこで人間の限界を試すことにしました。これが今回展示する「自然|JINEN」のベースなんですよ。結局合計四年間、夏場は富士山の山小屋、冬場は西表島を行き来していました。そして、合間合間に撮った写真を現像出してプリントする、というサイクルが出来上がって行きましたね。
人間と自然の関係性、そのBORDERが垣間見える瞬間
──富士山でも、西表島でも人間と自然の間にあるボーダー、境界線がどこなのか、試されている感じがします。
そうですね。富士山で過ごしてみてわかったことは、僕たちは宇宙の一部で、自然の中で生きてきたということでした。頭上には遥か彼方まで宇宙が広がり、目の前には太陽や月が昇り、雲が動き、水が生まれる……それら全てと自分との一体感を富士山では感じていました。だったら逆に、なぜ人は今のような社会を作って、自然から離れていく、あるいは離れていったのか、ということを考え始めました。富士山から下を見ると、近い方から山肌がブワーと見えて、その先にビルが並んでいます。地球の上に貼られたコンクリートが、かさぶたみたいだな、と思いました。それが僕にはあまりにも不自然に見えたので、「なんで土の上に住めないんだろう」、「なんで四角い建物を作るんだろう」と思って。それで、もっと実際に自然の内側に入って体感しないといけないと思って、実際に体験したのが西表島でのことです。原生林にすごく大きな鳥や、見たことがないくらい大きなコウモリが飛んでいたりします。まるで恐竜が生きていた時代を思い起こさせるようで。
──実際に体験してみてどうでしたか?
「此処は地球やー!」という爽快感がありました。同時に、自然の中に身を置くことで、実は虫や動物が天候や危険を教えてくれたりしていることにも気づいて、自然との距離感がだんだんつかめてきました。実際に他の生き物が何を感じているかは分からなくても、かれらは地球上で与えられた環境を受け入れてありのままに存在しているのに、なぜ人間は自分たちの世界に閉じこもって自然から離れてしまうんだろうと思いました。そして、富士山の上では自然との一体感を感じているのに、一人で森の中に入るとたちまち怖くなってしまうという。
──今回KYOTOGRAPHIEで展示される「自然|JINEN」は、屋久島に九年通い、森の中で一人で過ごされた時の作品だと伺いました。
はい。西表島でいろいろなことを感じて、人間の自然の距離感や関係性についての疑問を周りに話してみたら、みんなに「屋久島に行くといい」、「屋久島はその関係性を感じるにはもってこいの場所や」と言われて、屋久島行くことにしたんです。でも屋久島では、写真を撮りに行っているというよりは、いつも自分の運命に向き合いに行く修行をしていたような感覚でした。森の中に一人で3、4週間滞在して歩き倒す、という修験者みたいな行為をしていたので。その中で自分の存在と目の前の存在である樹との対話をしていたというか、全体としての森ではなく、一本一本の樹と向き合い、その樹を被写体として撮影していました。いや、むしろ写真を撮る行為が向き合うという事をさせてくれたと言って良いかもしれません。夜の森では樹に頭に着けているヘッドライトでライティングして撮影しました。そして、その結果として写真によって見せてくれた樹の姿が今回の屋久島の作品です。だから自分がこの様に撮ろうと思って撮った写真は一点もないんですよ。でもカメラは、結果的に自己と被写体の関係を可視化してくれる、それが風景でも人でも、もちろん自然でも。そして、世界を、その真実を見ることが出来る物だと思っています。
──樹と対面することで、自分と樹という個としての関係が現れてきますね。
なんで自然という宿命から人間が離れていくのか、ということを調べれば調べるほど、人間が感じる自然への脅威や疑いは、宗教的に「人間の罪」という言葉でしか釈明できていないような気がしていて。例えば、西洋ではアダムの原罪が真理から切り離される話は分かりやすく、また東洋では、人間の老いや病気、死など避けられない恐怖心、それはつまり業が原因であると言われてきました。その中で仏陀は出家し、悟りを開き、「全てのものは完璧につながりがあること、何事にも因果関係があること」というその真理に気付いた訳です。
僕たちはその真理から切り離された不安や恐れがベースにある社会の中で「これをしたらこういう結果になるから回避しよう」とか、すぐに守りの姿勢になってしまう。屋久島で、僕はカッパを着てヘッドライトつけて万全の体制で夜歩いているのに、横を見たら猿はヘッドライトなしでも木の実を見つけて食べていて、そこらへんで寝ているじゃないですか。この違いは何なんだろう、と。
それで結局、人間は自然の一部であり、この世界に必然的に存在しているのだから、疑いや恐怖心を手放してそれを受け入れるという行為がどこまでできるかっていう話なんですよ。しかし、僕自身一人で森の中で不安に苛まれている時には、自らの内に入り込み記憶や心の中に閉じこもってしまい、しかもそれが安心するという事が多かったんです。もしかしたら、この事が人が自然から離れた社会を形成していく現象に起因しているのかもと思いました。そして、そんな最中に巨木の存在が突如と現れ、カメラを通して向き合うことにしました。それが今ここに在るその樹と自分自身を繋げてくれた気がします。その関係性や自らが抱いていた観念が写真によって表われている事にも気がついて行きました。
──屋久島での体験について教えていただけますでしょうか?
屋久島での滞在プランをある程度決めて、麓のキャンプ場で地図を見ながら準備していたら、「台風が来ているから、早く避難小屋に入ったほうがいい」と言われて、小屋で避難するところから始まりました。結局台風が過ぎるまで4、5日間は動かず過ごしました。じっと山の中で動かずに居るだけで自らの感覚が変化していったのを思い出します。その場所にチューニングしていくというか、分かりやすく言えば携帯電話のS N Sやメールへの意識が外れていき、意識レベルで社会から切り離されていった感覚というか。その後は、1週間くらい経ったタイミングで「今日、宮之浦岳を越えたい」という日があって、暴雨の中、30キロくらいの荷物を背負って、宮之浦岳、永田岳を越えて鹿之沢小屋に行くことを決行しようとしていました。コースタイムで言えば13時間くらいかかるところです。でも、途中ですごい雷が鳴り出して、本当は先に進みたかったけれど「この荷物持ってこの豪雨やったらちょっと危ないかもしれへん」と思って。「わかった、ここは行くなってことやな」と感じた時、ちょうど横を見たら岩屋があったんですよ。「わかりました、ここに泊まります」と応答して、そうと決めたら急に虹が出てきたんです。「ああ、こういうことがコミュニケーションかもしれへん」と思いました。なんか一瞬掴めた、って。その向こうのメッセージとこっちの決断と。この奇跡は、もう自分の範疇を超えています。
──自然の力を全身で感じ取っておられますね。
その次の日は晴れたので、目的の鹿之沢小屋向かいました。その後はその周辺を1週間くらいひたすら歩き倒した後、花山広場という下山していく前にある、森の中の聖域みたいな広場に行き着きました。ちょうど満月でした。フィルムももう何本かしか残っておらず、食料ももう少しで尽きるというタイミングです。テントを張ったにも関わらず、急に一回外で寝てみようって思い立って。その広場に大きな樹があって、その根っこで寝ようと決めて、シートを引いて寝転がったらすごく気持ちよかったんですよ。気を抜いたら別次元に行ってしまいそうな感じです。屋久島は、自然に近づくと圧倒的なグワーッと押し寄せてくるエネルギーを感じるんですが、そういう時、「あっちに吸い込まれてしまったらあかん」と我に返って自分でブレーキをかけないといけない様な事が度々ありました。不意に神隠しにあうのが怖い、と感じル様な。でも、そうやって精神を研ぎ澄ませていると、自分と自然の間のボーダーが垣間見える瞬間があって、ある時から樹に触れただけで心地良いエネルギーを感じることが出来て、祝福されているような気持ちにもなりました。
──その後、9年間屋久島に通われましたが、終わりを迎えられた時の瞬間はどのような感じでしたか?──その後、9年間屋久島に通われましたが、終わりを迎えられた時の瞬間はどのような感じでしたか?
結局、9年間で10回通い、毎回3週間から1ヵ月を森で過ごしてきましたが、
もう、屋久島中、昼夜問わず歩けるところはもう歩き倒してしまいました。自分の中にある恐怖心や疑いから解き放たれるために、こちらとあちらの結界を行ったり来たりしながら。去年の夏、滞在も終盤に差し掛かっていた時、無風で寒くなく、月の明かりで歩ける絶好の日がありました。それで、鹿之沢小屋から永田岳、宮之浦岳を越えて、淀川登山口まで行こうと決めました。星も綺麗に見えていましたし、「もう完璧やん」って思って。そうしたら急に30キロの荷物が一切重く感じなくなって。写真もいいものが撮れる。最後の最後、最初の年に屋久島で朝日を見た岩の上で朝日を見たんですよ。日が昇ってきて、樹々の間に光が差し込んできて、こっちに光が押し寄せてくる。今まで「怖い」と思って撮ってきた妖怪みたいな樹たちが、オセロの黒が白に変わっていくみたいに、全部光に変わっていく。それで、樹々から最後は僕自身に光が差し、その光に吸い込まれて「パーン」と溶けてしまうような瞬間を体験したのが最後の屋久島でした。
──屋久島での体験後、「現実の社会」に戻られてから、日常に変化はありましたか? 日々の生活の中で大切にしているがあれば教えていただけますか?
森の中ではずっと一人でいたので、常に自分の内側、感情や心の状況を観察していましたが、日常という社会へ戻ってからもその行為は続いています。森では自然に対して抱く心のあり方によって森の様相が変化していました。それが今回の「自然|JINEN」で表現した事です。そして、日常という社会に戻ると対象はやはり人間関係、パートナーシップや仕事やお金のこと、そういった様々な現象がある訳ですが、それらに抱く心の状態を観察する事になりました。その心の状態が結果的に目の前の現実という世界を作り上げてしまう事を知ったので、瞬間瞬間に抱く感情や心を俯瞰して見るように意識しています。まあ、なかなか難しいですけど。
──KYOTOGRAPHIEの来場者に向けて一言メッセージをお願いいたします。
この様に僕は森の中でずっと過ごしてきましたが、ある時から写真が「こういう事だよ」って言っている様なモノが現れてきました。それらを集約していくと、自分でも意識しきれない次元の姿を写真は見せてくれたと思います。全ては自らの内なる世界とその現象である外の世界です。カメラや写真はその狭間をつなぐ不思議な道具であり物です。そして展覧会とはまさにその境界(ボーダー)を体験する場所ではないでしょうか。是非この大きな世界の一つの構造、側面に触れて頂けると嬉しいです。
1977年兵庫県生まれ。自然の中に長期間滞在し、自然と人間の関係性から世界の根源的なありようを探求している。独学で写真をはじめ、スタジオアシスタントを経て制作活動を本格化。富士山七合目にある山小屋に600日間滞在し雲上の来光を撮り続け、山での暮らしから宇宙へ意識が広がる体験の中で制作した作品『夜明け』(赤々舎)を 2010年に発表。2014年には、『夜明け』の制作時に滞在していた山小屋の主人に焦点をあて、山での日々から人間が包含する内と外の対話を著した書籍『雲の上に住む人』(静山社)を刊行。2020年には、5年をかけてモンゴル全土を巡り各地で形成される時間や空間、相対的な現実や多元的な世界構造などを探求した作品『惑星』(青幻舎)を発表した。そして2023年、屋久島に9年間通い、毎回単身で森の中に1ヶ月近く過ごしながら自然と人間の距離感を探り続けた作品「自然 JINEN」を発表する。長野県を拠点に国内外で展覧会を開催し続けている。